2009/06/26
■ありがとうございました。
パラレルワールド上映会にお越しいただいたみなさま、関係者のみなさま、誠にありがとうございました。お手伝いやメインの生徒若衆、大変お疲れ様でした。

このイベントが何をもたらしたか(もたらすか)は、もちろん参加した人それぞれの受け取り方で大きく違うでしょうが、私は私なりに、今直面している問題に対して、ひとつの結論を下す大きな転換のきっかけのになると思います。

仕切り直しをして、気持ちを切り替え、新たな闘いの第2章に向けて準備を開始します。

その前にせめてメキシコの「燃える平原」やバリの神「アグン」やヒマラヤの「カイラス」にでも、少しの間だけでもいいから充電旅行がしたいのであった。

 

2009/06/19
■パラレルワールドへようこそ!
6月22日(月)「てのひらの岳」「鰹がくわえたバカ者」「ホクロにコイン」の上映会に、多数の応募、誠にありがとうございました!

もう招待状がお手元に届いている筈ですね。

6月22日(月)、
シネ・リーブル神戸にて、
午後21:00〜22:30、
完全招待制での1回のみのお披露目レイトショー上映です。

午後8時より劇場窓口にて受け付けを開始し、8時50分より整理券番号順にご入場いただく予定です。
当日は混雑が予想されます。10分前頃までにご来場いただけないと席の確保が難しくなる場合がありますのでご注意下さい。

では、心より、ご来場お待ちしています。

どうぞよろしくお願い致します。

 

2009/06/01
■50名さま無料です!6月14日締め切り!急げ!
私が関わっている神戸芸術工科大学メディア表現学科映画専攻2年生が先輩たちのサポートを受け創作に励んだ新作短編娯楽劇映画「ホクロにコイン」が、遂に、完成間近です!そしてそのお披露目があります。

6月22日(月)、
シネ・リーブル神戸にて、
午後21:00〜22:30、
完全招待制で、
1回のみのお披露目レイトショー上映!

「ホクロにコイン」をメインとして、他にも生徒たちが実習や自主で創作した2本の短編を同時上映する上映会です。

この完全招待制上映会に、50名様を無料ご招待します!どしどしご応募して下さい!

応募締切 6月14日(日)
応募フォーム 

http://form1.fc2.com/form/?id=427108  

※携帯からでもアクセスできます。
※レイトショー上映ですので、18歳未満の方は保護者同伴でご来場いただくようお願い申し上げます。
※応募数が多い場合は抽選させていただきます。
※当選者の方には6月17日までに招待状をお送りします。当選の結果は招待状の発送を持って発表に代えさせていただきます。
※当選・落選に関するお問い合わせには一切お答えできませんのでご了承下さい。

お問い合わせ:
神戸芸術工科大学映画専攻
E-mail:film@kobe-du.ac.jp
担当:前田
芸工大映画専攻ブログ:http://mfblog.exblog.jp

【シネ・リーブル神戸】
〒650-0035 兵庫県神戸市中央区浪花町59 神戸朝日ビルディングB1F

以下、この上映会の詳しいプレス対応情報です。

タイトル:パラレルワールド

サブタイトル:神戸芸術工科大学映画専攻学生制作映画上映会

文句:目覚めたら、そこは知らない、もう一つの現実世界。

作品名:「ホクロにコイン」
監督・脚本:永野 義弘
出演:福島 綱紀 山岡 亮太 古澤 直人 他

【同時上映】
    
「てのひらの岳」
監督:岡山 佳弘 畑 亜希子
脚本:畑 亜希子 山戸 美津子
出演:小深山 菜美 畑 亜希子 他

「鰹がくわえたバカ者」
監督・脚本・主演:向田 優
出演:堤 右科里 飯田 麻斗 他

日時:2009年6月22日(月)21:00〜22:30  
※完全招待制
場所:シネ・リーブル神戸にてレイトショー上映
情報:石井監督登場トークイベントあり!!
主催:神戸芸術工科大学先端芸術学部メディア表現学科映画専攻
共催:神戸芸術工科大学
製作協力:財団法人角川文化振興財団

パラレルワールド」=「この現実ではない、もう一つの現実世界」=「映画」

神戸芸術工科大学映画専攻初の劇場公開となる、学生制作映画上映会「パラレルワールド」。自分自身の内にある、もう一つの現実世界を撮り続けてきた私たちの、一夜限定レイトショー。

神戸の学生が持つ、映画に対する情熱と愛情。

神戸芸術工科大学に映画専攻が誕生して今年で4年目。神戸の地で学び、製作してきた映画を、ぜひ多くの人々に見てもらいたい。その想いが、ついに実現する。中編映画「ホクロにコイン」は、本学教授である石井聰亙が製作指揮を執り、2年生が中心となって、企画プロデュースやキャスティング、撮影、編集、合成作業、そして上映に至るプロセスまですべて学生自身が行った。また、同時上映する短編映画「てのひらの岳」は、准教授である槌橋雅博の指導の下、3年生が中心となって制作、飯岡撮影監督をお招きし、2年生が16mmフィルムでの撮影に挑戦。同じく短編映画「鰹がくわえたバカ者」は、2年生が一人、DVカメラを担いで制作に取り組んだ意欲作である。未熟ながらも映画制作にかける学生たちの情熱や愛情を、ぜひ劇場で体感していただきたい。

「ホクロにコイン」
HD/カラー/40分
ストーリー:目が覚めるとそこは見知らぬ施設だった。顔にホクロがある中年男は言った、「一日一善以上」と。生と死の狭間で始まる異世界サバイバル!はたして主人公の運命やいかに……。ハイビジョンカメラで撮影し、CG合成に挑戦した意欲作。
監督・脚本:永野 義弘 出演:福島 綱紀(エアロスペース) 山岡 亮太(スターダストプロモーション) 古澤 直人(劇団そとばこまち) 他

同時上映!学生制作短編映画2作品

タイトル:「てのひらの岳」
16mm/カラー/20分
ストーリー:薬学研究員の瀬枝子は、森で奇妙な屋敷に迷い込む。そこでククと名乗る少女とも少年ともつかない不思議な人物に出会った。「命の尊さ」をテーマに描く16mmフィルム作品。学生が制作した、こだわりのセットにもご注目。
監督:岡山 佳弘 原案・脚本・共同監督:畑 亜希子 出演:小深山 菜美(ディメンション) 畑 亜希子 他

タイトル:「鰹がくわえたバカ者」
DV/カラー/17分
ストーリー:鰹ダシの粉末袋を拾った裕人は、思いを寄せる女の子のために奔走する。鰹が意味するものとはいったい?己との闘いに奮闘しながら、まっすぐ生きてく高校男子の青春恋愛ストーリー。
監督・脚本・主演:向田 優 出演:堤 右科里 飯田 麻斗 他

トークイベント
上映作品「ホクロにコイン」に携わった学生たちが、石井 聰亙監督をゲストにお迎えしてトークイベントを行います!
【石井 聰亙】
映画監督。神戸芸術工科大学映画専攻教授。代表作品は「逆噴射家族」「五条霊戦記」など。

 

2009/05/21
■まだまだ!
こうだと決めつけてしまう行為はそれ以外の解釈や理解の可能性を閉ざしてしまう事でもある。

知らない事、分からないモノに出会った時に、思考停止になったり、否定したり、それまで得ている知識でその事やモノの本質まで決めつけて裁断してしまうという間違いをアッシもよく犯していたが、知らない事や理解不能のモノは、今を生きているものであるなら、瞬間々に変化を続けるかもしれないし、アッシがいまだに出会っていなかった知らなかった新しい何かを教えてくれる貴重な宝かもしれない。

流動生成する未知のモノや事にも心を開けるようになりたい。

漁師や海女さんがクジラを背負って歩いてもいいのだし、クジラから花火が吹き上がってもいいのだ。そういう祭りが今現在も続いているのだ。楽しい。

 

2009/05/14
■無知の知
ヤツは何も知らないのに、何かを知っていると信じており、これに反してアッシは、何も知りもしないが、知っているとも思っていない。

アッシは、やはり、まだ、ほとんど何も知りはしなかった。

人間の大脳の思考や知恵が捉えきれるのは、科学や哲学の極限が捉える事ができるこの世の姿は、宇宙真理の全情報の一握りにしか過ぎない。

アッシらの街の生活、近代生活が必死に追い求めているのは大脳皮質(私的情報知性)や左脳(理性的理解)が必死に組み上げ続ける「仮想体系」にしか過ぎず、たとえばそのマトリックスの中では「野性」や命が本来持っている「五感」や「本能」は、重要、必要とされない。

自然環境とその中で生き残る人間以外のあらゆる生き物は「自己」と「他者」を区別する「知性」「情報」は無いから「野性」「五感」「本能」中心に生きるしかない。その「本質=魂」は「無知」だが「無垢」である。

人間がこの世で生き物として生きようとすれば、人間の魂は「野性」「五感」「本能」を絶対に無視したり封じ込めたりする事はできない。それが無いと錯覚して生きていくといつか必ず歪みや壊れ、時に狂気が吹き出す。

家に閉じこもっているとアッシの魂は反逆を起こす。「野性」「本能」が狂おしくうずく。
「五感」で「大自然」と接触する必要がある。でなければ、アッシの飢えを満たしてくれる強い本物の「表現」を浴びなければそれは治まらない。

音楽を浴び、映画を体感し、目の前にある緑を土を水を海を山を風を、光を、闇を、生き物を、食べる前の活きの良い食材を、ただ全身に浴びて触れて取り入れて「野性」「五感」「本能」を取り戻す。

アッシにはアッシの、あなたにはあなたの「野性」「五感」「本能」がある。
(灼熱の砂漠や燃える熱帯やうねる大河やすべてを浄化し包み込む雨やスコールや風や自然を浴びた肉体とその記憶が内包された命は強いのだ。当たり前だ。その日常は軟弱な現代人であるアッシには強すぎるかもしれないがやはり時に狂おしく欲する時がある)


『彼は知らないのに知っていると思っているが、私はまだ充分わからないのでわかっていると思っていない。その点では私のほうが少し彼より知恵が優れていると思う』

…ソクラテス「無知の知」

 

2009/05/08
■LET IT LOOSE
1曲目の「ジャンピング・ジャック・フラッシュ!」のイントロのギターリフ!!それ一発!!!

それだけでもう、アッシの脳内麻薬は沸騰し、体が宙に浮き、時間と空間が歪み、別次元への旅に出た。

そのイントロを効かせる為の監督の誘導も巧みだったが(それは本当にドキュメントだったのか?監督と彼の確執さえすべて仕組まれた演出にさえ思えてしまう)一気に無我夢中の夢遊状態に突入したアッシは、まんまと監督とStonesの思うつぼにはまり、映画館で映画を観ている状態とは言えない脱魂状態のまま至福の時を過ごした。

初来日公演で接近遭遇した時に「まるでネイティブ・インディアンの酋長が太極拳をやっているみたい」に見えてシビれた「キース・リチャード大兄」のLet it Looseなギターはますますゆるく軽くなり、合気道や居合い抜きの達人の構えの如くに、何時鳴るのかどう鳴るのかの間合いの極意に達して、それがチャーリー・ワッツ大兄のストン・ストン・リズムに共振して、アッシの心の懲りやとどこおりに電撃マッサージのように響いて来る。

ローリング・ストーンズの繰り広げる奇跡のロックンロールショーが「シャイン・ア・ライト」という映画に刻まれた。周到に配置された名人カメラマン達がメンバーの動きを流麗に刻銘に捉え続け、デジタルマルチ音響システムに合わせた立体的な録音とミキシングの入念な編集モンタージュでスクリーンに再生される。

ドラック中毒で全身の血を入れ替えたと言われた、ヘビーDRUNKとヘビースモークでいつ死んでもおかしくないと言われ続けたあのキースが、今、生きていて、あんなに元気に楽しそうに、無我夢中に、赤子のように無心に、ただギターに向かって演奏を楽しんでいる。

それより今回心底驚いたのは、ミック・ジャガーの肉体と動きだ。この化け物は一体何歳なんだ!これはホントに一晩だけのぶっ通しで続けられたショーなのか?
確か、66歳だった筈だ。とにかく信じられないくらい若い体型と動きだ。顔は確かにシワくちゃの60過ぎのオヤジイなのに、首から下が10代の若者、それもアスリートの世界的選手並の体力を持つスリムな若者をCG号合成したような奇跡の体型と動きをする肉体がくっついていて、全くの常識外れで、頭が爆発しそうになる。「ありえねえ!」(いや、何でも有り得る!)

あのように意味も無くクルクル回り続けたり、飛び跳ねたり、突然ダッシュして止まったり、アッシも小学生の頃はエネルギー一がはち切れそうだったからよくやった記憶があるが、それを66歳にもなるオヤジイが、汗をかいたり息を切らせるそぶりもなく、長時間のライブの間中ロックンロールをシャウトしながら、涼しく演じきるというのは、一体どういう事なのだろうか?
現人類にそれが可能だというひとつの見本を自らの肉体で創り示し続ける魔神、妖怪にミック・ジャガーが見えてくる。

このミック・ジャガーの驚異的な肉体と体力は何によって保たれているのか。ありとあらゆる徹底した食事療法や肉体トレーニングやコーチングは当然としても、加えてアッシはヨガ、瞑想、などを大きく取り入れているとみるがどうか。

アッシが尊敬し続けている同世代のロック帝王「ルー・リード」大兄も、若い頃は重度のヘロイン中毒から死亡説が耐えなかった退廃ロック魔王だったのに、今では全く元気な姿で、強度バツグンのミステリアスで詩的なロックを現在進行形のライブとしてアッシらに響かせ続けてくれている。昨年封切られたライブ映画「ベルリン」で体験できたパフォーマンスは、ロック、ジャズ、クラッシック、ゴスペル、映像アート、演劇等を融合させた独自の完成度の高い芸術表現、生きたロックになっており、この体験もまた大感動しきりだった。

ルー・リードは太極拳を確か18年以上も続けている事を雑誌に語っていた。不健康なドラッグ中毒退廃ロック魔王というそれまでの彼のイメージと全く違うのでずいぶん面食らったけど、「レイブン」ツアーの時は太極拳の先生をツアーのパフォーマンスメンバーに連れて踊らせていたし、太極拳はあの強靱な肉体と精神を保つ必需品なのではと思う。

ジミー・ヘンドリックスやジム・モリソンやブライアン・ジョーンズら多くのロックのカリスマ達は、あの当時、20代で生き急いで、破滅的にドラッグ中毒やアル中になり、サイケデリック宇宙の彼方に飛んでいってしまったが、生き残ってくれたアッシの兄貴達は、イギ―・ポップ兄もそうだと思うけど、よほど生命力が強いのか、一度限りなく近づいて或いは越えたと思われる「生と死の境界線」から、無事に帰還して、その経験を生かし、ナチュラルな自然体で意識と肉体を統合する事に成功し、近年、衰えるどころか、ますます頑強な表現活動を見せ、アッシらファンを狂気乱舞させてくれている。

キースがそれに同調するように頭を空っぽにして体を揺らせて腕が自然に弧を描いて電気増幅された音が空中に放たれる時、ミックがそれに呼吸を合わせて同調して無心な幼児のように運動を続ける時、ルー・リードが闇の中に鳴り響く電気リズムのビートに無意識の詩魂を重ねて清水の滴のようなキラめく言葉が思わずこぼれ落ちる時、無我夢中の境地の時に、時間と空間は息を潜め、表現の新次元が創出する。

彼らは良い呼吸をし、頭を空っぽにする時間を過ごして、おそらくたくさんの脳内麻薬を自然に発生させ続け、それを活発に循環させ続けて、無理なく森羅万象と共振をして、表現を続けるコツを掴み続けている。時にゆるゆるに、時に激しく。

今や世界を代表する映画監督になり、一作ごとに前人未踏の境地を更新し続けようとしている70歳を越えた我らがクリンスト・イーストウッド大兄も、一番大事な習慣として毎日の「瞑想」を上げていた。(これは意外だった。いまではもちろん頷けるが)
ディッビット・リンチ兄も言わずもがな、瞑想が日課だ。

創作の尽きせぬ霊感の泉と、底知れぬエネルギーの泉。
それは、何もしない、何も考えない瞑想の静けさの奥、何もしない気持ちの良い呼吸の奥にも、しっかりと待ってくれている筈だ。

人間だけが発達させてしまった大脳皮質の思考のおしゃべりやエゴの自己防衛反応を捨て去った丸裸のアッシの赤子の心の奥に、人間が構えて自分のちっぽけな知性で捉えようとする世界の秘密の奥に、透明にしなやかに、無限の可能性を秘めた創作の神が住む。

それはアッシそのもの、あなたそのもの、真理そのものであるだろう。

 

2009/03/12
■色 無 空 
 この世に存在する物質の形の最小部分を扱う物理学の最新学説で一番有名なのは「超ひも理論」だ。

 この理論によれば、力と物質をあわせた万物の最小構成要素は、大きさが10の-35乗m程度の1種類の「ひも」が、いろいろな形によじれたり巻き付いたりしたもので、これがいろんな形になってクォークなどの多種類の最小素粒子点に対応するというものだ。
自分の理解ではこのひもは振動しており、最小世界を扱う量子物理の不確定性原理のお約束通り、実際は有と無の間をとても激しく振動しており、典型的には 10×42乗 Hz という周波数で(1秒間に 10の42乗の早さで)振動して、様々なストリングス(音楽?)を奏でて、それが様々な物質の最小単位に変化していくというものだ。

 だけど、とアッシは考える。じゃあ、宇宙の果てへの距離にさえ感じてしまうその天文学的小ささのストリングスを奏でる「ひも」や「振動」を作り出しているエネルギーの元の元は何なのだ?

 「超ひも理論」自体も、あまりに極小の世界過ぎて、計算がややこしく理論証明が困難らしいが、あくまで科学の世界で物事を捉えるならば、その「超ひも」が何によって作り出されるのか、その先はまだまだ謎という事になるという事か。

仏教の世界では、この宇宙を作り出している最終単位を「空」という概念で現す。

 この宇宙を作り出している元、ありとあらゆる万物・森羅万象、すべての存在、現象の源にある根源的なみなもと、それを「空」と呼ぶ。
 すべてのあらゆる物質、現象は、それが人間の感覚や科学で捉えきれぬものであっても、すべてこの「空」から発生していると仮定する。

 だからブラックホールも、太陽も、その光の粒子や波動も、地球や他の星も、水や土やアメーバや植物や鉱物や昆虫や動物や、そして人間も、すべての最小単位はその構成物質を通り越した果ての果ての元は、この「空」に帰るという仮定だ。

 この「空」から「無」と「有(=色。すなわちものの形、物質)」が出現すると仏教は説く(とアッシは理解している)。

 「無」は何もないという虚無状態、絶対零度の状態ではなく、有が発生するために無いエネルギーが充満しきった状態である。仏教の「無」は虚無ではない。
その「無」は「有」の元をはらむ「空」と繋がるエネルギーだとアッシは夢想する。
(この「無」が量子物理科学が扱う所の不確定性原理における存在すると存在しないの間の、不確定性にあたるのか?)

 色即是空:「色=もの」は「空」であり、
 空即是色:「空」は「色」である。

 本来は同じものであるから、瞬時に入れ替え可能な のである。

 ついでに書くと、宇宙は真空だが、絶対零度(=エネルギーの動きが全く止まる理論上の停止点。完全な真空。マイナス273度)=「無」ではなく、基本的な温度(?)が何故か存在する。
 
 暗黒の無限な虚空にもエネルギー=温度があるのだ。

 宇宙空間のどんな方向を観測しても、そこに物質がなにも存在していなくても、絶対零度よりは3度だけ高い温度が観測されるという(背景放射とか黒体輻射と呼ばれているらしい)

 宇宙は、絶対零度=マイナス273度より、わずかだが確かに、3度だけは温かい。

 「空」は、暗黒の虚空の宇宙全体の奥にあり、すべてに平等に降り注ぐ太陽光線の波動と粒子の奥にもあり、地球やアッシらを構成する水や空気の素粒子、ひも振動の奥にもあり、もちろんアッシらの心の奥にもある。

 「空」は宇宙全体に、常に「今、この瞬間」そして「永遠」に、偏在しているのだ。

 それは、宇宙全体の源であり、アッシらの本当の故郷であり、どんどん突き詰めて小さくなってそこに帰っていけば、アッシらそのものでもある。

 この仏教のすぐれた仮定に対応する知恵が、まだ科学の知恵からは出ていない(アッシは知らない)

 もちろん、仏教のこの仮定だけが、唯一この「空」という概念を説いているわけではない。オリジナルのすぐれたキリストの教えを含め、(本物の精神的な教えは決して他の宗教を否定しないし責めもしないが)この根源的な「空」のとらえ方については、アッシには、どの教えも基本的には全く同じように感じれる。

 それを時に「神」と呼び、時に「愛」とも呼ぶ。

 アッシらは当然、奥の奥で繋がっているし、本当は知っている。ただ記憶喪失になっているだけだ。

 人間だけが、大脳皮質という分野を何故か異常に発達させ、「自己」と「他者」という考え方、私と「有」や「無」や「空」という、本来は分けられないものを分けてとらえるようになった。

 それは何故か?それにはそれ相応の深い意味がきっとあるはずだが、アッシにはまだわからない。

 アッシらにはアッシらが生まれた必然が間違いなくあるが、何故、この「空」と常に一体だという安心感、充実感、安定感、を奪われ、その代わりに「孤独」というものを「エゴ」というものをこうまで極端に末期的に発達させてしまったのか、アッシにはわからない。

 当然、その分離がなければ、他の森羅万象の存在と同じように、「空」や「有」や「無」と常に一体であったなら、人間がそういう概念すら思いつく事はないのだが。

 いつもなら、自分の頭の中でグルグルと回り消えていく、長々とした思いつきを今日は一気に書いてみた。

 アッシは何が言いたかったかというと、自分の表面上の「エゴ」の「自己防衛反応」や「他者に対する不安、反抗、愛憎、思考の勝手なおしゃべり」や無意識の奥や親や祖先から因果として受け継いだ表面上の自分が気がつかない「悲しみ」や「こだわり」や「ネガティブ志向、嗜好、思考」、「記憶の無意味な反復情報」と、それがもたらす肉体や精神の状態、現象、状況に惑わされることなく、本当の自分を取り戻す事をとても大事と説いてくれる大きな知恵のひとつが、「仏教」だと、今は理解しているということだった。

 その中にあって「とりあえず電源を入れてボタンを押して使ってみよう」的な「仏教の取り扱い説明書、第一歩」が、いわゆる「色即是空」で有名な「般若心経」であるし、また「座禅」や「曼荼羅」であるとアッシは理解している。

 ただ、この「般若心経」や「座禅」は、初歩であり、基本でありながら、それだけで「仏教」の真髄の如くごっつう深く、これだけでアッシにはもう充分すぎるくらいなのである。

 あらゆる「有」なもの(自動反復情報)を一旦「無」にしてゆき、とても大切な源のエネルギーである「空」に繋がって、根源のみなもとの記憶を取り戻し、そこに帰りアッシは切り離された孤立した物ではないという透明な響きが広がっていく時、その確実な場所に触れる、その瞬時、アッシは「本当の自分」をひととき取り戻す。
 
 アッシが捉える「座禅」は呼吸法としての座禅だが、食欲、睡眠欲を取り除いてただ何も考えない時、アッシらには呼吸だけが残る。これだけはやらないとアッシら肉体は自動的に「死」という状態に移行してしまうが、呼吸が良いと肉体も喜び、脳が冴え、大脳皮質の表面上の人間中心思考や、不完全な知恵のおしゃべりや、エゴの感情揺らぎが少し遠くに行ってくれる。

 より効果的な姿勢と呼吸法を「座禅」は教えてくれる。

 ただ、アッシには正式な形に座る座禅は足がきついので、あおむけに寝ながらやる禅、椅子に座ってやる禅、立ってやる禅、いろいろ簡単なものもあるので、簡易にとらえてそっちをやっている。もちろん背筋を正しく伸ばして姿勢を決める正しい座禅が最も効果的ではあるだろう。

 慌ただしいアッシら現代人間にとっての、「仏教」という「本当の自分を取り戻すハウツー」の入門取説は、「般若心経」と「座禅」だけではない。
(たとえば親鸞聖人の浄土真宗の教え、その神髄である「南無阿弥陀仏」の6文字のお経と、「無差別救済」の思想もまた、簡潔にして神髄である仏教の入門書、すなわち「本当の自分へのハウツー」なのであった。この事は安易に書けないのでいつかじっくり書く)

 以上、今日も、すべてアッシの勝手な解釈で綴られた「無」「空」「仏教取説」の未完の戯言なり。

 そして「座禅」「般若心経」より、「ローリング・ストーンズ」や「ルー・リード」のライブ映画の体感のあの震える瞬間が、あのミックやキースやルーの66歳の大兄たちがいまだにローリングするロックスピリット表現するお姿を一瞬でも拝む事が、より「本当の自分」への帰還の閃きを見せることもある。
(ただ、彼らはアッシを一方的に「無」から「空」へ連れていってくれるが、そこから先は当然責任を持ってくれない)

 「科学」「仏教」「ロック」「映画」「日々の家事や子育て」「料理」…ジャンルは関係ないのだ。

 すべてに「その瞬間」、「本物の自分」は開かれている。

 キース・リチャード大兄のお言葉。
「俺は、ステージ上ではただ無我夢中だよ。だから今までやってこれたのさ」

次回は当然、ロックなのである。

 

2009/03/04
■Cool Beat Heat 3.6
本当は初期作品が単発で店頭に並ぶ事に合わせて、当時と今の映画の有り様の大きな変化への感慨を長い文章で一気に書いた。そして送信を押したら、それがそのまますべて幻のように消えてしまった。残念。

これも何かの因果なのでもう同じ事は書かないが手短にこれだけ。

消えてなくなる運命だったアッシの「俺たちに明日無き暴走」「みんなぶっ壊す勝手にしやがれ」純度100%初期衝動、刹那的映画群が、こうして後世に残って永遠に繋がったのは、無垢な熱意と協力を作品に注いでくれた関係者や応援者のおかげだ。

改めて厚くお礼を言いたい。

ありがとう。ゴメンなさい。どうか許して下さい。愛してます。

Never Give Up !

Viva Rock Spirits !

 

2009/02/24
■無我夢中
「無我夢中」=「我=エゴ」が無くなり夢の中にいるような状態

アッシら人間は「無我夢中」になると、時間の束縛やら日常生活のストレスやら様々な嫌な不安やどうにも落ち着かない気分などを一時的に忘れて、やっている「何か」に打ち込み、時間も無い、不安も無い、エゴ自失状態の純粋な意識状態に突入する。

エゴが選別する欲得、大脳皮質が発し続ける思考のおしゃべり、無意識の記憶の反復による選択情報などを「無」にして、その間は消し去ってくれる。

この瞬間は、まず「本当の私」だ。

この瞬間が続けば、脳内麻薬が全開に活動し、我を忘れて無の境地に没頭できてその事がとても快感であり充実と至福を感じるワケだ。

余計な事を考えなくて済み、この状態にすぐになれて、無我夢中で「何か」をやる時間を超える瞬間。
それが「日常の生活」や「仕事」になっている人は、とても幸せな人だ。

でも、それが「日常」や「仕事」になっていない場合(ほとんどの人がそうだと思うが)、自分の今の日常や仕事には無我夢中になれないから、代償が必要になる。

だからアッシらには「趣味」、「好きなこと」、「娯楽」、「酒やタバコや嗜好品」、「SEX」、「ギャンブル」、「宗教」など、「無我夢中」なって没入できるもの、その瞬間エゴを自失できるものが必要となる生き物なのだ。

ただこれらに「無我夢中」になる場合、自分だけではなく別の人間を必要とする事、お金というままならない問題が付きまとってしまう事、法律に触れる事、他人を傷つけるような事、他の人間がその行為に不安や脅威を感じてしまうような事、その人本人を破滅させるような行為は、自分だけの「無我夢中」では収まらない問題を発生させるから、やっかいな訳だ。
大人なんだから勝手にすれば、という訳にはいかなくなる「無我夢中」もある。

映画は、それがとても上手くかみ合った場合、もちろん、個人の「無我夢中」を越えて、様々な仲間たちの「無我夢中」が上手く掛け算になって新しい命を得て、個人という枠を遙かに越えて、うねり、どんどん強大なエネルギーを持っていって次々に周辺や世界に伝染していく事ができる、とても面白い表現物でありメディアであり装置になる。(他の表現も同じだけど)

個人の「無我夢中」から始まった「何か」を、今を生きる多種多様な個性を持った仲間たちの「無我夢中」とサンプリングして、それを徹底的に増幅させリミックスして、限界地点の表面張力のバランスを見極めて、「これだ!」という娯楽と表現に定着させて、それを仕事にして世の中に提供するのが、アッシの役割だ。

仕事にならない「無我夢中」も、もちろんあるわけで、それはそれでやれば良い。

「無我夢中」を同時に職業にするべく天職として生まれた「業」とそうしたい「エゴ」が強大であったアッシは、どうしてもすべてに欲張って強引に一方的に自分の「無我夢中」に仲間や他人を巻き込みがちであった。今まではね。

何に「無我夢中」になれて、それがそういう境地かは、千差万別、人それぞれ。

「無我夢中」=「エクスタシー」ともいえると思うが、至高のエクスタシーの表現に向けて、「映画」という娯楽表現、エクスタシー表現装置をさらに磨いていくため、強くしなやかな物語装置やドラマ、POPさ、何より新たな「ひらめき」「霊感」「アイデア」が必要なのであった。(未完のまま続く)

 

2009/02/23
■鏡心
アッシらの脳には、実際には毎秒110万ビット以上の情報が知覚され、そのうちの泡のような8〜40ビットだけが意識の表面で捕らえられ、あとの110万ビットは無意識の闇に葬られる。こうして莫大な情報がアッシらの無意識の奥に眠ったままになる、そうな…と前回書いた。

生きて瞬間々動いている今でさえ、抱えきれない情報に溺れてしまいそうなのに、これまでに過ごしてきた時間、また、両親や祖父母、祖先などから無意識に受け継いでしまって蓄積されて眠っている情報(これが実は相当莫大にあるのだが)は、いったいどれほどの天文学的量になるのだろう。

その情報は、アッシらが意識して消さない限り、アッシらの無意識の闇の記憶の大海に眠ったままになっている。

この無意識の奥の闇に眠っている情報は、今、瞬間々、考えて、あるいは自動的に意志を決定している(と思い込んでいる)アッシたち人間に、決定的な重要な意味を持つ…らしい。

何か重大な決定をする際の判断基準。
あの人とは気が合い、この人とは気が合わないと思うような直感。
ある意見、ある表現に対する共感や違和感。
今は、これがしたくて、これはしたくないと思うような気分。
好き嫌い、嗜好、志向、思考…。
すべての意志や、アッシらの意識、心、魂と考えられているもの…

ある独りの人間の無意識の奥の大海に眠る「重要な記憶」は、時々、突然に、夢に浮上したりする事もあるが、通常は、日常の意識には知覚されず、でも無意識の奥で重大な活動を続け、その人の意識や行動、それにとどまらず、その人の目の前に起こるすべての現象に影響を及ぼしている……つまり、その人の意識や、心や、魂をそれが決定しているだけでなく、その人の目の前に現れて出会うすべての事象が、その人の無意識の記憶の反復にすべて起因がある、その人の無意識の記憶の反復がその人を決め、出会う現象の実像を生み出している……だから、目の前で起こる事、すべてはその人の責任である、という説がある。

アッシは、最近、これを、個人的に、完全に信用するようになった。

つまり、それが「心」の「鏡」であり、「心が生み出す現実=鏡心」いう事だ。

あなたのすべて、あなたが体験するすべては、あなたの心が起こしている「鏡心」であるという事…

「鏡心」は、アッシらの日常意識でコントロールできる心ではなく、毎秒ごとに心の奥深くに積もり積もっていく天文学的な無意識の情報のゴミや、アッシ達が忘れたくても無意識が忘れてくれないとても強い「トラウマ、コンプレックス」=「強い心の傷=決して消えない悲しみの感情の傷跡」や、両親や祖先、民族や地域社会から受け継いだ、実は単なる集団の思い込みでしかない実態のない付和雷同の習慣や常識や普遍性という幻想、そしてまた何より自己を守り正当化し生存していく為の、強い「我=エゴ」が、その存在の有り様を決定している。

アッシらの心や、意識や、魂や、気分や、思考や、嗜好や、判断や、選択は、アッシらの純粋無垢なオリジナル情報の反映ではなく、既に与えられた、そして瞬間旬瞬間与えられ続けている、無意識の情報の記憶の反復である…

ふー…と。書くのが相当難しいので、今後も何度も推敲し書き直すと思うが、だいたいはそういう事になるようだ。

で、肝心な事は、アッシら何故そうなったかわからないどうしようもない人間は、放っておいたらどうしてもこの「無意識の記憶の反復における現象、自分」の「鏡心」現象の意のままになってしまうので、常に瞬間々、それから逃れ続ける努力をしなければいけない。

「本当の自分」、「本当の自分の魂」、を維持し続ける為には、瞬間々沸き起こる「情報の泡=思考の泡」「過去の自分、祖先や両親、共同体から受け継いだトラウマやネガティブな感情」「エゴ」「ほとんど無意味な思考のおしゃべり」等を、意識して、消去して消去して消去し続けなければいけない…という事だ。

その消去がうまくいった結果、「本当の自分」はようやく、その奥からカスミの如く浮上してきて、その現象が目の前に自然に起こり出し、「本当の自分」として、あるがままに生きることが可能になる…とアッシは実感している。

仏教も、キリスト教も、ありとあらゆるスピリチュアルな教えも、そしてアッシらの無意識を揺さぶって感動させ浄化させてくれる芸術表現、絵画、音楽、ダンス、演劇、小説、映画、POPなあれこれも…、すべてそれが本物の教え、表現ならば、アッシらの過去や今、瞬間々に沸き起こる膨大な無意識の情報のゴミをすべて葬り去り(慈愛と繊細な丁寧さを持ってね)、本当のアッシらを深く自覚する為の手助けをしてくれて、純粋ピュアな「鏡心」を起こして、アッシらがアッシらの本来の姿に変える力を持っていて、それを喜んで助けてくれるのだ。

アッシが馬鹿なのでこうして改まって書いてしまうとなんだかとても大げさな事のようだが、たとえば何でもない深呼吸ひとつでこの毎秒110万ビットの意識のゴミ情報は消去されていくし、心の持ちようひとつで、すぐれた音楽一発聞いただけで、アッシらは「本当の自分」に戻れる。
これはIQには関係ない事だけは断言できる。
(まだまだ未完)

 

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